No.Diary

ナンバーダイアリー。数字を基点に自分の世界の整理をするブログ。 written by tomorinne [all art work:Ayane Saito ]

#111111「玄」 [#111111-黒の海を泳ぎはじめる]

純化

 

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#111111「玄」 / #111111-黒の海を泳ぎはじめる

 

 

私はいつも「私たち」という曖昧な概念に揺らいでる。

あなたと私の境界線がわからない。

あなたたちと私の違いはどこに?

だからあなたの言う「私たち」を探して私を見失う。

 

「あなた」と言い表す誰かが増えれば増えるほど、

「私」は「私たち」のなかで消えていく。

 

誰かの抱く「私たち」は幻想だ。

私が受け取ろうとしている「私たち」も、「繋がり」も、なにもかも幻想でしかない。

 

幻想のなかで死ぬことは、

一度も生まれなかったのと同じこと。

生まれもせずに、幻想の死をくり返し繰り返しループし続ける。

 

真実だと思い込んで来た幻想が崩壊する衝撃や恐怖があったとしても、

生まれ出ることは、はじめて真実の死を選べるということ。

 

真実の死は幻想の世界の死ではない。

ネガティブなものでも恐ろしいものでもない。

「生きた」ということだ。

 

私は、生きなければ。生きたいんだ。

幻想の「私たち」の「繋がり」を守って、幻想の死を選んではいけない。そこには何もないから。何も。本当に何もない。壊れ続けていく世界を幻想の中で見るのか、幻想の外へ出ることを選んで、生きることを選択するのか。

 

同じ死ぬのなら、

生きて、死にたい。

 

生きもせず、死にもせず、生まれもしない。

 

そんな終わりなき絶望の幻想はもう終えるんだ。

 

 

 

家族という概念も、先祖という概念も、何もかも幻想。幻想だと認めることは本当に困難だけれど、そんな「私たち」の「繋がり」は幻想でしかない。愛着は執着に変わり、感謝や恩は、怨念に変わる。幻想に縛られる誰もが、本当は自由を願い、「私たち」みんなの幸せを祈ってる。その願いを、祈りを、私たちは幻想のなかでその世界を維持するために互いの首を絞め合い続けることで昇華していると思い込んでる。

 

 

「私たち」という「繋がり」を信じるからこそ、その首を絞める行為すらも愛なのだと、受け入れなければならないのだと思って何周も何十周もループしてきてる。

 

 

でも、もう終わっていいんだよ、終わりなき絶望は。終えていい。

 

 

 

幻想が崩壊するのを直視することに怯えるのは、

私というのがいつまでも「私たち」だと思っているからだ。

 

 

私は、私だ。

 

 

 

そして、私が私にならなければ、

誰との繋がりも本当はないんだよ。

 

 

私が私であるからこそ、

私はあなたと「私たち」になれる。

#1111「安堵」 [#111111-黒の海を泳ぎはじめる]

安直なやさしさや、よりそいよりも。

 

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#1111 「安堵」 / #111111-黒の海を泳ぎはじめる 

 

 

そこにある って何なんだろうといつも思う。確かにそこにあると知っているのに、あってはいけないと思っているなにか。いけないものだと思っているから、いつでも曖昧にポジティブなフリをしてしまう。覚えたてのギャグをかまして楽しいとわかる安直な時間を構築してみせながら。

 

たったひとりでいるときは、たったひとりでも生きるつもりでいるときは、それは自分の唯一の救いであり唯一揺らがず寄り添いつづけてくれるもの。私自身をいつでもやさしく包むもの。

 

誰かと生きたいと思う瞬間、突然その唯一のやすらぎは「悪しきもの」のように罪悪感とともに存在を隠したくなる。「いやいや私はそんなものもってないんだよ、うん、もっていないんだ」って慌てながら。「だからお願い、いっしょに生きて?そしたらいっしょに生きられるでしょ?ね?ね??だって周り見てたらそんなふうに見えるもん!ね??それが誰かと生きるってことなんでしょ?」って、必死に取り繕う安さに辟易しながら、それでも「誰かと生きたい」という欲求の叶え方はチープな手法しか知らず、ペラペラの安さで自分を売り込むことをやめられない。

 

売り込みながら、自分の安さに辟易しているそれが滲み出ないはずもなく。

 

相手はきっと、自分がそんな顔をさせてしまっているのだろうかと思うか、あるいはズレを不協和音に感じるんだろう。それを私自身も感じ取りながら、チープなループをとめられない自己嫌悪にハマっていくことがしばしばあるし、その時間を経たあとに、自分自身のその安っぽさをどうにか取り繕いたくていつも焦りながら過ごしていく。

 

 

誰かと生きることは、あの安らぎと共にはないんだろうか。いつからそれをダメなことにしたんだろう。いつからそれをネガティブなもののように隠さなければいけないとしたんだろう。

 

癒やされるってよく言われるそれは、わたしが隠そうとする「安らぎ」のもつちから。それはある意味では「死」と言い換えても差し支えなくて、だからこそ隠したくて堪らない。死にはさまざまな思い込みがつきまとっていて、その思い込みに怯えてる。でもそれは後ろ暗い何かや、腐臭のするようなものではなく、ただただ純粋な安らぎがほんとはそこにある。そこにあると知っているのに、誰かにみつからないように、わたしはいつでも隠そうとしてる。

 

いつか隠さずいられるだろうか。誰かと共に生きながら。安直なやさしさや、よりそいよりも、その深い安らぎの純粋さをそのまま持ちながら。

#11「蝕・蘇生」 / #111111-黒の海を泳ぎはじめる

 

すべてがわたしであることを最も知っているもの。

 

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#11「蝕・蘇生」 / #111111-黒の海を泳ぎはじめる

 

見たいものがあって。それを共に味わいたい誰かがいて。「その先」の「もっと先」へ手を伸ばしている。ずっと。ずっと。誰かもきっと同じようにずっと手を伸ばしてて。一瞬触れたように思ったそれをたぐって掴み、握って、抱きあいたくて一斉にそちらに向かって走り出し、そこに見えたはずだと思った場所になにもない絶望を何度も味わう。求めるからこそ大騒ぎして、これじゃないんだ!と探しまわって。手を伸ばせば届くんだと思ってはまた伸ばして。

 

まるで蜃気楼のようで。伸ばしたはずなのに消えていて、みつけたはずだと思っても見失い、手をつなぐ相手が違うのかと周りを疑い、自分が悪いのかと責め続ける。走りぬける途中途中で価値観の違いにぶつかりながら右往左往し、這々の体でやっと走りぬけてもそこにはない「その先」の何か。

 

世界にうつる沢山の自分。周りが全てまるで鏡で。何を見ても誰を見ても発狂しそうなぐらいに自分しか見えない。どう見れば真実が見えるのかも思い出せないまま、ずっとそこに映り続ける自分を、眉間にシワを寄せて睨みつけている。一瞬互いを感じた そこにいたはずの誰かもまた、同じように眉間にシワを寄せ自分自身を睨みつけている。発狂しそうな絵面に囲まれて、私たちは発狂しないための努力に血反吐を吐き続けてる。まわりに映るその絵面は自分をうつしているように見えて自分ではないと信じているから。自分ではないそれを守りたくて。すべての人を幸せにしたくて。内側から自分を壊すように何かが私たちを蝕んでいく。

 

蝕むそれを感じながら、私たちは曖昧に笑ってきた。ハッキリ意志表示しているように見せながら、境界線を曖昧にすることをやさしさだと信じて。誰かを壊すくらいなら自分をボロボロにしたほうがいいと。何故ならすべてを愛しているから。そこに在るすべてをいとしいと、私たちは思ってきたから。誰かの話す愛の価値観じゃないかもしれないけれど、私たちは確かにすべてを愛しいと思っている。だから誰も何も壊さないために、崩壊させないために、自分を崩していく。内側から腐食させて。外側に見えるなにもかもを自分の内側にいれて、それを腐食させれば、わたしたちの愛しい世界はかわらず生き続けることが出来ると信じて。

 

 

でもまだ微かによぎる。「その先」が見たいんだ、と。

 

 

私たちは静かに考え続けた。ありとあらゆることを試してみせながら。ジリジリと内側から腐食させていくその限界まで何度も自分を切り売ることを辞めずに。そして、もうすぐ限界を迎えそうな今、たったひとつだけまだ試していないことがあるってことにわたしたちは目を向け始めてる。何度切り売っても、限界まで請け負っても、世界は決してしあわせそうじゃない。わたしたちの愛しいひとは、愛しい世界は、決して喜びに満ちてない。そしてもう私たちも、限界を超えて決壊する寸前だと知っているしもうこれ以上代われないことを感じながら、それでもまだ、ジリジリ自分が蝕まれていくのをじっと見つめている。

 

 

 

ねえ、もういいじゃないの。愛しい世界が壊れるのなら、最後のひとつを試してみても。

 

 

 

それは私たちが忌み嫌ってきた最期の砦。自分の解放。自分の隠してきた本質の解放。力の解放。それは世界を浸食する。今まで肩代わりしてでも守りたかった世界のすべてを侵していく。彼らの世界を覆いつくしながら、内側からも染めていく。ほかの何も見えなくなるほど濃く、暗く、真っ黒に。気付くだろうか、彼らはその黒のやさしさに。気付けるだろうか、その抱擁に。黒に抱かれることの恐怖に怯えないだろうか。わたしたちの愛しいものは、それに包まれてもまた復活していくだろうか、かつて見たあのうつくしい輝きを取り戻して。その黒は、すべてを肯定するものだと、認めなかったのは私たち自身なのかもしれないね。私たちが再び繋がり合い「その先」へ向かうには、この黒がすべてを覆い尽くし浸食していくなかにわたしたち自身も浸すこと。境界線を曖昧にするのではなく、すべての境界線をなくし、すべてを肯定することでしか得られないゆるされた世界へ。そこからでしか「その先」の微かな光は掴めないのだから。そうでなければ見えないほどに、わたしたちのこの世界は変質したのだから。

 

たとえ暗闇にみえたとしても、わたしたちは、その本当のうつくしさを知っているのだから。守るために否定してきたその美しさを、もう一度肯定しよう。自分と世界と、私たちの蘇生のために。

 

 

 

 

エピローグ-epilogue- [44のパズル]

自分にまつわる混沌を切り拓く44という数字をパズルにして遊ぶに至ったお話。

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「44のパズル/エピローグ」

 

自分が秩序を辿った最初は数字からで、常識的な成功者への憧れが勢い余って理数系の進学コースに迷いこんでた高校時代の苦い思い出をおもいかえすとさっぱり信じられないけれど。

 誕生日と名前を数字に置き換えていくいろんな計算式をみていくと、何をどうすればどんな情報がそこから読めるのかが当たり前のようにわかって。自分の読みたい精密機械並みの情報は、まるで人間の設計図のように誰も知らない図式をわたしの求めるままに描きだしてた。あれが欲しいと思えばそれを読むための数字はどこなのか、どんな読み方をすればちゃんと欲しい情報にアクセスできるのか、ただ光って見える秩序の道に従って進むだけで目の前にあらわれていく。

 

読んでも読んでも読んでも読んでも飽きないくらいにそこに情報があって、ある意味数字の声を聴くだとか、そんな職人みたいな気質があればきっと必ず出来ることで。日本人は石の声をきいて城の石垣を組む職人たちがいて、布の声をきいて古代布を復元する職人がいるんだという。それなら数字の声くらいきけるだろうってなんだか納得したりもして。

 

極端に混沌としている精神的な世界に触れざるを得ない、自分のゴミ箱の外側を進むルートにおののいては気持ち悪くなったり周りの気配を伺いすぎたりしたけれど、あたりまえをあたりまえにする44という秩序の世界で、自分にとっての当たり前である才を自分と繋いでひらかせる。ただそれだけが自分の道を前へ前へと切り拓いて、自分のあとに道ができていく。自由と好奇心に従う向こう側へ続く道が。

 そんな設計図を持つ自分なら、その44を自分なりにほどいてみようとおもって、パズルにして遊んでみました。

 

カタパルト-catapult- [44のパズル]

これまでの枠組みは秩序の間違ったつかい方だったと示される。

秩序とは自由のためにある。

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「44のパズル/カタパルト」

 

随分ズレたニュアンスや意味で使ってんだなって思うことが多いんだけど、言葉ってそれそのものは別になんも悪いわけじゃなくて。言葉が内包してる普遍的な領域への繋がりをぶった切りながら使うおまえらの鈍さは一体なんなんだよってイラつくことがしばしばある。言葉だけじゃなくて、それは数字だったり、色だったり、ものの見方だったり。でもそれがその人にしかない納得いった視点なら、こっちもただいいねってなってる。だからきっとその言葉なり数字なりを頼りに普遍性の核みたいなものに突っ込んでいこうとしない意欲のなさを嫌ってるんだとおもう。

 

べつに「正しさ」があるわけじゃない。どんな解釈だってあるだろう。いつだって新しいものをそこから発見してくことが、同じもんばっかり繰り返すようなダッサいゴミみたいな人生を笑い飛ばすってことなんだと思う。そのゴミみたいな自分も、ゴミみたいな考え方も、ぜんぶ笑って、笑って、笑い飛ばして。自分の細胞の隅っこのはじっこの最後の一個まで、ぜんぶ笑い飛ばして消し去ってやりたい。ただの残骸の古さを記憶してるそれを。

 

イラついて、死んじまえよそんなどーでもいい生き方してんなら、って思ってるくせして、全身の細胞の60兆だか37兆だかしらないけどそこに必死になって溜め込んだ常識が強烈に反応して、嫌われないよにあいまいにへらへら誤摩化してく。誤摩化してイイヒト気取りながら、自分の真ん中のなにかがねじれて「ぐぎゃー!!!」って変な鳴き声あげているのを苦笑いしてさらに誤摩化す。たまにねじれをもとに戻そうとして地震みたいな何かを起こすそれだって、周りに影響出さないために全身の細胞で閉じ込めて内側で爆発するように仕向けてる。

 

内側で自爆しても自爆してもそれでも諦め悪く「そんなんだったら死ねよ!!クソよりクソなゴミクズが!」って、誰かのなにかを見るたびにそれに対して曖昧に笑う自分に唾飛ばしながら怒鳴ってる。どんだけ自爆させても諦めたりしない、おまえは一体なんなんだよ!!って、逆ギレしながら自分と自分で殴り合う。殴り合いながら、「クソが!クソが!」って自分が作り上げた狭っちい箱の壁にぶつかり続けてる。

 

自分の内側は爆破されてくし、外側は狭くてささくれだった壁のトゲがささって血だらけだし、殴り合ったとこはえぐれてくし。なんなんだよって疲れ切って静かになって、そんな瞬間 箱の外側からまだ聞こえてくる中途半端な言葉に、「「うっせーんだよ!黙れ!!!」」って勢い余って口が滑る。そしたらやっとその狭い狭い狭すぎてギチギチで立つことすらできやしない ちゃちな箱がぶっ壊れてく。

 

なんだよこんなペラくて安いガサガサのベニヤでできた箱だったのかよって、あっけなく壊れたそれを見ながら立ち尽くすけど、実際 情けないことにそれが生まれてはじめて自分が立った瞬間だったりする。そんなちゃちい箱すら壊さないように気をつかって、その外側にいるんだかいないんだかもわからない誰かの顔色伺って。

 

立ったままどこに歩いていいかわかんなくて、案外歩いてるひともいなくて、壊れた箱の切れ端にぎったままどうするのが正解か、ってまた「正解さがし」に精を出したり。箱から出ずに、立ったり座ったり、立ったり座ったり。

 

「出ろよ!そっから!!!!!!」

 

やっぱりまた自分のなかから声がして、でももう殴り合う気はおきなくて。まっしろになったままぼんやりしてたら、蹴っ飛ばされるように箱から外に転がり出てた。

 

別に夢のような花畑がそこに広がってるわけじゃなく、ドロっとまとわりつくグロテスクななにかと、一瞬でそれが消え去るような何もかもが粒子のような世界とが、ヒカリに揺れながら万華鏡みたいにただ変わりつづけてて。そこになにもいい悪いはなくて。蹴り出された元居た箱みたいなボロいゴミ箱にいなきゃいけない決まりもなくて。

 

そこでどんなことをするのも、なにをするのも自分で決めてよくて、右足出そうが左足出そうが口開けようが飛ぼうが転がろうがどうだっていい。細胞に溜め込んだ常識の古いふるい記憶は全然なんの役にもたたない。

 

そこでなにを頼りにするかって、「おまえが最初っから知ってるソレだろーが」って、何もかもに内包されてる普遍性の核に繋がる筋道がかすかに光って見えてくる。

 

自分が今まで秩序だと思って来たのは、ただのボロいゴミ箱で、ほんとは最初から自由に向かっていくための秩序は見え続けてたし、それを無視してたのは細胞にためこんだ誰のためかわかんない常識での正しさだったんだってなる。そんな秩序はどこにもゆがみがなくて、ゆがみのない秩序をどう解釈しようがゆがんだりしない。それはゴミ箱みたいな狭いとこには繋がってない。自分のなにもねじれない。

 

秩序は無機質な決まりごとで、常識こそが秩序なんだって思い込んでたタダのバカは、秩序はむしろ有機的な情報を汲み取って読みほどいていくことだっていう当たり前のことに気付いていってる。

 

その秩序に従っても、やっぱり古い常識の住人の声はいつまでだって聞こえてくるけど、わざわざうっせえって言いに行くまでもなく、自分に見えてる秩序を辿ってみせるだけでいい。

 

それが個人的なのに極めて広い世界に飛び出していくためのカタパルト。

 

サルベージ-salvage- [44のパズル]

死の概念っていったいなんだ?

本来の循環のサイクルってなんだろう。

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「44のパズル/サルベージ」

 

死の概念。

 

自分の父親は10歳のときに死んだんだけど、死に対してどうこう思うというよりは、その死を受け止めきれなくて激しく波立つ周囲の大人達の悲しみや内側からの叫びみたいなものをモロにうけとって気付いたら自分の爪がボコボコ穴があいてたのは覚えてる。心理的なストレスがからだに出たんだろうなっていう。死よりも生きてるひとたちが大変なんだなっておもう。ひとつの要がなくなるだけであなたたちはそんなにもボタンを掛け違っていくのかいってことを思いながら、それを伝える術を持たなくて、ひたすらそれぞれに泣くひとたち、泣かずに内側から壊れていくひとたちの叫びに、寄り添ってついてって、ひたすら手をつないで。手が足りなくて。

 

夢のなかで「今から電車にのっていくんだ」っていう父と「そうなんだね、わかったよ」って別れて、わたしのなかで死は処理されてた。ただそれだけだった。手術して以来出なくなっていたかすかな声のまま別れを告げられるのを聞きながら、それ、もう声出るよ、あと、なんでその病院のときのままの感じなの?好きな格好できるのにって不思議に思いながら。

 

でも泣かなかったわけじゃない。卒業式で泣くように、死という卒業に対してもおなじように泣いていた。卒業のたびに泣いてきた。幼稚園から高校まで、ずっとずっと泣いてた。大学のときは、卒業しても同じことを自分でやり続けることがわかってたから学校を出ることとかあまり関係なくて、そのときだけは泣かなかったかもしれない。卒業のとき泣いたって、それは悪いことじゃないって誰しも知ってる。でも死ぬことだけは何故かものすごい雄叫びのようなものが多くのひとの内側から立ち上っていく。死んだ方じゃなく、生き残ったほうから。それは、自分の、生きてる自分の生き方への叫びであったり悲しみであったり後悔なんじゃないかとか、あんまり言いきりたくないけど。大抵そうかなっておもう。

いつかそんなひとたちの手を握りつづけることで、自分がそんな叫びを引き継がなければいけないような気がしてきて、随分長いあいだ生き残った人たちの叫びを肩代わりしてきた。もう長くなりすぎてそれが自分のものではないことも忘れて。肩代わりしなければドラマティックな展開に溺れていっただろう周りのひとたちを、自分を犠牲にすることで守ったつもりだったのかもしれないけれど、いまこうして振り返ってみれば わたしがそうやって肩代わりしたことで、肩代わりされたほうはいつまでもそこに居続けている。誰もそこから歩き出さずに。ただ時間が経過することと、その悲しみの沼に浸り続けるところから一歩ずつ歩き出すこととは違うようで。誰も歩き出さずにいることで先延ばしにしてきた「個」への回帰は、20年も経ってから、再起動された古代遺跡のプログラムのようにうごきはじめる。

 

そのプログラムは、「死」をただ「死」として受け止められずに壊れたまま、ぎゅうぎゅうと寄り添いあうふりをして誰も歩き出さずにいるところから、「個」を救出してそれぞれのデータを復旧させて再起動させるよう。それは、わたしたちがいつのまにか別なものにすり替えていた「死」の概念を、ちゃんと「卒業」に戻してくれるような。そうやって循環して、わたしたちもまた卒業する。このように「死」が「卒業」なんだと思いなおすことができなければ、わたしたちは死んでなお「卒業」できないまま、取り戻すためにリベンジのためにまた変わらぬループを選んでいく。卒業するから、また入学だってできるんだ。

 

わたしたちは皆「個」のデータを持っている。だからそのデータをサルベージしなくちゃね。そこにはわたしたちが 持ち帰りたかったものがあり、持ち帰りたかった先がある。「個」で生きることは「孤独」であることとはちがうんだと思う。かなしみの沼で寄り添い合うことは、その沼から誰も出ないようにしなければ支えが足りなくて転んでしまう。抜け出そうとするひとを引きずり倒し、それでも抜け出したならまた新しい誰かを引きずり込むためにあらゆる手をつくす。もういいじゃないか。みんな沼から出れば。そんな沼こそ幻想でしかないんだから。

誰もがいつかだれかの叫びに呼ばれて、大丈夫だよって伝えようとして、寄り添おうとしていつのまにかそこに居続けてしまっただけなんだから。大丈夫なことを、ほんとは自分が一番知っているんだとおもう。

ブラインド-blind- [44のパズル]

しあわせ ふしあわせという概念の崩壊。

デフォルトとは何なのか?

 

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「44のパズル/ブラインド」

 

しあわせっていうことばを あまりよく考えないまま "いいこと" としていつだって使ってきたけど、それはほんとにそうだろうかって最近考えることが多い。しあわせって概念は、ふしあわせがあって成立する。じゃあ、しあわせって概念が在る事自体がじつはおかしいんじゃないかって思ったりする。あたりまえにあたりまえであることをしあわせって私たちは言ってる。でもそれって、しあわせっていうんじゃなくて、あたりまえのはずなんじゃないのかっていう。つまりデフォルトにしあわせのはずなのに、ものすごい努力して労力をかけ犠牲をはらってふしあわせに向かう。ほんとにしあわせになりたいなら、ただその努力をやめるだけでよくて、はらっている犠牲って何かというとただ自分を殺しつづけることでしかない。自分を殺しながらしあわせになれるはずなくて、もしもそれでしあわせになったつもりでいても、そこにいるのは自分じゃないんじゃないかって。デフォルトって、努力して戻るものじゃない。デフォルトから無理して外れるためにやってきた全てをやめるだけで、わたしたちは望んでいた「しあわせ」な状態になるんじゃないか。

 

模索したり頑張ったり葛藤することをまるでいいことのように思っているそれは 一体どこからきてるんだろうと思う。自覚していなくても、いいわけのように使ってしまうのは、模索や努力や葛藤って呼ばれるものなんじゃないかとおもう。葛藤が何故起きるのかは、本来値から外れていってるからなんじゃないかって。そのデフォルトがどんなものだったか思い出すために、もしかしたらはじめはそこから離れようとしたのかもしれないけれど。それは楽しみであったはずで。そこに溺れてしまっては なにしに初期値から離れたかすらわからなくなる。何故それを知りたかったかって、きっと知ることによって発見してみたいことや自分にとって新しい気付きという好奇心に従おうとしたんだろうし。人それぞれにちがうその発見が、きっと世界をあたらしくしていくんだろう。しあわせになることがゴールじゃない。だってひとはしあわせなんだから。それは初期値でしかない。デフォルトでしかない。溺れるために目隠しをしているなら、もう外せよっておもう。目隠ししてたら、わざわざ初期値から離れて違いを計測しにきたのに、そのデータ収集すらまともにできない。わたしたちはしあわせになるために生まれてなんかいない。最初からずっとしあわせだし、そのしあわせから離れてたって結局いつだってしあわせだ。ふしあわせであることなんて一瞬たりともない。

 

ただ目隠しを外したら、わたしたちには今何が見えるのかな。人の数だけ、見えるものがあって、その発見によって、わたしたちは進化できる。それは強烈に好奇心を刺激して、それぞれがそれぞれに求めてた何かを満たすものなんじゃないかとおもう。もし満たされないなら、また次の瞬間違う発見をすればいい。まあ そうやって思い切れないのも人間らしさなんだろうけど、きっと今の自分は足のつく浅いプールで溺れたふりをしている滑稽さだろうなってふと思うことがあります。