No.Diary

ナンバーダイアリー。数字を基点に自分の世界の整理をするブログ。 written by tomorinne [all art work:Ayane Saito ]

サルベージ-salvage- [44のパズル]

死の概念っていったいなんだ?

本来の循環のサイクルってなんだろう。

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「44のパズル/サルベージ」

 

死の概念。

 

自分の父親は10歳のときに死んだんだけど、死に対してどうこう思うというよりは、その死を受け止めきれなくて激しく波立つ周囲の大人達の悲しみや内側からの叫びみたいなものをモロにうけとって気付いたら自分の爪がボコボコ穴があいてたのは覚えてる。心理的なストレスがからだに出たんだろうなっていう。死よりも生きてるひとたちが大変なんだなっておもう。ひとつの要がなくなるだけであなたたちはそんなにもボタンを掛け違っていくのかいってことを思いながら、それを伝える術を持たなくて、ひたすらそれぞれに泣くひとたち、泣かずに内側から壊れていくひとたちの叫びに、寄り添ってついてって、ひたすら手をつないで。手が足りなくて。

 

夢のなかで「今から電車にのっていくんだ」っていう父と「そうなんだね、わかったよ」って別れて、わたしのなかで死は処理されてた。ただそれだけだった。手術して以来出なくなっていたかすかな声のまま別れを告げられるのを聞きながら、それ、もう声出るよ、あと、なんでその病院のときのままの感じなの?好きな格好できるのにって不思議に思いながら。

 

でも泣かなかったわけじゃない。卒業式で泣くように、死という卒業に対してもおなじように泣いていた。卒業のたびに泣いてきた。幼稚園から高校まで、ずっとずっと泣いてた。大学のときは、卒業しても同じことを自分でやり続けることがわかってたから学校を出ることとかあまり関係なくて、そのときだけは泣かなかったかもしれない。卒業のとき泣いたって、それは悪いことじゃないって誰しも知ってる。でも死ぬことだけは何故かものすごい雄叫びのようなものが多くのひとの内側から立ち上っていく。死んだ方じゃなく、生き残ったほうから。それは、自分の、生きてる自分の生き方への叫びであったり悲しみであったり後悔なんじゃないかとか、あんまり言いきりたくないけど。大抵そうかなっておもう。

いつかそんなひとたちの手を握りつづけることで、自分がそんな叫びを引き継がなければいけないような気がしてきて、随分長いあいだ生き残った人たちの叫びを肩代わりしてきた。もう長くなりすぎてそれが自分のものではないことも忘れて。肩代わりしなければドラマティックな展開に溺れていっただろう周りのひとたちを、自分を犠牲にすることで守ったつもりだったのかもしれないけれど、いまこうして振り返ってみれば わたしがそうやって肩代わりしたことで、肩代わりされたほうはいつまでもそこに居続けている。誰もそこから歩き出さずに。ただ時間が経過することと、その悲しみの沼に浸り続けるところから一歩ずつ歩き出すこととは違うようで。誰も歩き出さずにいることで先延ばしにしてきた「個」への回帰は、20年も経ってから、再起動された古代遺跡のプログラムのようにうごきはじめる。

 

そのプログラムは、「死」をただ「死」として受け止められずに壊れたまま、ぎゅうぎゅうと寄り添いあうふりをして誰も歩き出さずにいるところから、「個」を救出してそれぞれのデータを復旧させて再起動させるよう。それは、わたしたちがいつのまにか別なものにすり替えていた「死」の概念を、ちゃんと「卒業」に戻してくれるような。そうやって循環して、わたしたちもまた卒業する。このように「死」が「卒業」なんだと思いなおすことができなければ、わたしたちは死んでなお「卒業」できないまま、取り戻すためにリベンジのためにまた変わらぬループを選んでいく。卒業するから、また入学だってできるんだ。

 

わたしたちは皆「個」のデータを持っている。だからそのデータをサルベージしなくちゃね。そこにはわたしたちが 持ち帰りたかったものがあり、持ち帰りたかった先がある。「個」で生きることは「孤独」であることとはちがうんだと思う。かなしみの沼で寄り添い合うことは、その沼から誰も出ないようにしなければ支えが足りなくて転んでしまう。抜け出そうとするひとを引きずり倒し、それでも抜け出したならまた新しい誰かを引きずり込むためにあらゆる手をつくす。もういいじゃないか。みんな沼から出れば。そんな沼こそ幻想でしかないんだから。

誰もがいつかだれかの叫びに呼ばれて、大丈夫だよって伝えようとして、寄り添おうとしていつのまにかそこに居続けてしまっただけなんだから。大丈夫なことを、ほんとは自分が一番知っているんだとおもう。